お疲れ様、ありがとう


「アグニ!俺だ。入るぞ」

 部屋の主の声が返ってくるのも待たずにドアを開け、ソーマは遠慮も無しにずかずか足を踏み入れた。





 ソーマはさっきまで自室としている客間で、夜食とナイト・キャップのカクテルを待っていた。
 

 柑橘系のその温かいカクテルは、まだ肌寒いロンドンの夜を過ごすうえで彼のお気に入りであったし。
 
 それを持ってきてくれるアグニを、あわよくば自分のベッドに引き込みたかったというのもある。

 
 しかし今宵は何故かなかなか来ない従者にしびれを切らし、自分から使用人部屋の棟に出向いたのだ。




 ファントムハイヴ家の使用人になったのを機に、客間から使用人部屋にアグニは移っている。

 執事で上級使用人である彼に与えられたその部屋は、客間と同じくらいの広さではあったが。

 必要最低限の質素なデザインの家具と少ない荷物しか置かれていないため、殺風景な部屋に感じる。


 そしてベッドのすぐ傍に置かれた椅子に座り、それに付属した書き物机に突っ伏しているアグニ。

 その体勢はうたた寝しているようにしか見えなくて、ソーマはそのことに少なからず傷ついた。


 四六時中ずっと自分に仕えていろとは言わないが、主人が起きて待っているのにこれはないだろう。

 月光のみが照らして机上のアルコールランプさえ点いていない部屋を、不機嫌に横切って近づいていく。


「アグニ!!」

 わざと足音を立てながら呼びかけてもアグニは微動だにせず、その背中が呼吸に上下しているのみだ。

 長身だが細い肢体を折り曲げて自らの片腕を枕にするその寝姿は、妙に稚くて無防備だった。


 窓際にある机の上は忍び込む月光に照らされて存外に明るく、その寝顔の細部までがよく見える。

 端正な横顔に伏せられた銀の睫毛は長く揃い、銀髪とともに薄暗がりの中でも光を帯びて輝いていた。

 そんなアグニの寝顔がどうしようもなく綺麗だと思うのは、惚れた自分の欲目なのだろうか。



 気持ちを抑えられなくなってきたソーマは、机に片手を置いて眠るアグニに身体を寄せていく。


 身体からは石鹸のいい香りがして、まだアグニが風呂から上がったばかりだと気がついて胸が弾む。

 手を伸ばして湿った散らばる二房だけ長い銀髪をとり、留飾りから下の部分に指を絡めて梳いた。

 長髪にしても猫毛で跳ねる癖の強い自分とは違い、直毛でさらりとした髪質がちょっとだけ羨ましい。

 これは長いともっと綺麗だろうから、アグニにいつかまた後ろ髪を伸ばせと言ってやろうと思う。


 もう少し近づいてみようとして体重を預けた瞬間、机の天板がぎっと嫌に派手な音を立てて軋んだ。



「・・・んんっ」

 その音に反応して微かに唸った声は閨で聴く喘ぎにも似た甘い響きで、ソーマは思わず唾をのむ。

 起こしたかと思って身体の動きを止めて身構えてしまったが、規則的で静かな寝息はすぐ再開された。


 注意深く身を乗り出してすぐ斜め上から確認してみたが、やはり聞こえるのは静かで規則的な呼吸音のみ。


 ふとその視界に映った机上には読書中に眠気に力尽きたのか、やけに分厚い本が開かれたまま載っていた。

 開かれたままになっているページに目をやると、それはロイヤルショコラのレシピである。

 ソーマはそれを見るなりはっと目を見開き、それから短く息を吐いてきゅっと唇を噛み締めた。



 あれは昨日メインハウスを訪ねたとき、シエルがアウターヌーンティのおやつで食べていたケーキだ。

 そして同じ物が食べたかった自分が、夕食のときにふと思いついて夜食にリクエストしたものだ。


 アグニは夜食にケーキなど身体によくないと反対したが、ソーマはどうしても食べたいと主張した。

 今になって思えば自分はずいぶん無茶な要求をしたが、アグニは調べて作ってくれる気でいたのだ。



 過ぎる我が儘を吐くのは直らない自分の悪癖のひとつだが、彼はそれの大抵を受け入れてくれる。

 ただ今回はさすがにそれの許容を超えていて、悩んで考え込んでいた末につい寝てしまったのだろう。



「はは・・・」

 そこまで考えて寝込みを襲う気でいた自分が恥ずかしくなり、ソーマは肩をすくめて自嘲した。

 いつの間にか高鳴っていた鼓動が収まるのを待ち、今度こそ音を立てないようかつ大胆に覆い被さる。


「お疲れ様、ありがとう。アグニ」

 そう囁いて静かに眠る佳人の無防備な唇に、ソーマはそっと触れるだけのキスを落とした。



おしまい


優しい君へ5のお題 より
[お疲れ様、ありがとう]

お題配布元:リライト





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