西の空に三日月が沈む時間になっても、まだ赤々と灯りの灯った執務室の扉の前で足を止めた。 近頃ソーマ様はお年を召されたお父上の藩王様を手伝って、ベンガル藩内における政務の一部を担っておられる。 実質の権威は藩王様が握っておられるが、英国の統治を受けているので派遣員の機嫌を取って政務をしなければならない。 英国から帰ってもう5年も経つが、あの地で出会った人々や様々な経験が彼を素晴らしい精神的な成長へ導いたのだ。 そして見聞にとどまらず、あちらに居るときに買って帰った本が政務に大いに役に立っている。 大臣に助言を求められるうちに自然とソーマ様も政治に携われるようになり、現在のお立場になられたのだ。 しかし仕事熱心でいらっしゃるのは素晴らしいことだが、そろそろ湯浴みをして就寝された方がいい時間だった。 「ソーマ様、アグニでございます。失礼いたします」 執事の特権として私はドアをノックしないで主人の部屋に入れるのだが、返事が無いのでノックをしてから足を踏み入れた。 広い部屋の隅にいつもソーマ様が書類に目を通しておられる机のすぐ脇、そこで長髪を背に垂らした人が何かをしている。 「・・・ソーマ様?」 こちらに背を向けているので顔はよく見えないが、背恰好からして私にはソーマ様のように見えた。 けれども振り返ったその人に胡乱な視線でこちらを見られて、私はそこでやっと勘違いに気がついた。 「ふん。お前の主人じゃなくて残念だったな」 「!・・・・申し訳ございません。サヴィトリ様」 私は不機嫌そうなその声にはっとして、慌ててその場で合掌して頭を深々と下げた。 サヴィトリ様はソーマ様の腹違いの兄上で、ベンガル藩の国王は第23子であらせられるお方だ。 ソーマ様のお母上の姉君が彼のお母上にあたるので、従兄弟であるおふたりはよく似ているのだ。 しかし普段のソーマ様は頭に更紗のターバンを巻かれ、 刺繍入りのジョードプリのスーツにタイトなズボンを着て長めの腰巻をしておられる。 装飾品といえばお気に入りのピアスに額のビンディ、そして肩章と腕輪を合わせた豪奢過ぎない威厳あるお姿なのだ。 しかしサヴィトリ様は癖毛の長髪を高く結いあげて垂らし、華やかな宝石の装飾品を身につけておられた。 さらに金の飾りがぶら下がった派手な色合いのシャルワニの長衣に、流行りのブーツカットのズボンを着ている。 どちらかといえば現在よりも英国に行く前のソーマ様の方が、彼と雰囲気が似ているかもしれない。 「なんだ?」 「・・・いえ、なんでもございません」 あの頃のソーマ様に似ていらっしゃるので、つい無意識に観察し過ぎてしまったのだろうか。 サヴィトリ様は腕を組んでまだ不機嫌そうな眼差しで、じっと私を睨んでおられる。 非礼を詫びようとまた頭を下げると、彼はふんっと鼻を鳴らして眉を顰めながら口を開かれた。 「ソーマなら親父様の急なお召で、ちょっと前に出て行ったぞ」 ご親切にも教えてくださったことに感謝して会釈すると、私は退室の挨拶をして彼に背を向けた。 きっと疲れて帰られるであろうソーマ様がすぐに休めるように、すべて準備をしてお迎えしようと思ったからだ。 「おい!ところでお前がソーマの男妾というのは本当か?」 しかしドアに手を掛けたところで、ふいにサヴィトリ様のお声が追いかけてきた。 「え!?」 思わぬところで呼びかけられて、耳に入ってきた衝撃的な言葉にどきっと心臓を跳ねさせる。 ソーマ様とは英国に居るときに主従を超えて愛しあう仲になったが、身分の問題などもあって周囲には秘密にしている。 でも あまりこの城に来られない方がご存じということは、まさか私たちの関係はほとんど知れ渡っているのかもしれない。 唖然とはしていたがサヴィトリ様が近寄ってこられると、上位の方に接する慣例に従って反射的に床に膝を着く。 すると彼は急に片手を伸ばして私の顎をぐいっと掴み、上向かせて嬲るような目で覗き込んでこられた。 「ふん。たしかにお前、男にしては小綺麗な顔つきをしているな」 「・・・ち、違います!私はただの執事です」 「執事?そうは思えんが・・・・ 妾として扱われていないとすれば、眺めて楽しむ愛玩動物か」 揶揄というよりも侮蔑を含んだ言葉に、ソーマ様と取り違えたことが不興をいちじるしく買ってしまったことを知った。 眉をつり上げたサヴィトリ様はまるで値踏みでもするように、じろじろと私の全身を見下ろしている。 「プラチナゴールドの髪に灰、いや銀色に見える眼か。 珍獣好きのソーマが手元に置きたくなる筈だ」 私だけならいいもののソーマ様に対しても悪意を感じる台詞を吐かれ、胸の内に怒りの衝動が湧いてくる。 それをぐっと唇を噛み締めて抑えてじっと床に正坐していると、ふいに彼は私の顎を掴んだままにやりと笑った。 「あ・・・」 不穏な気配を感じたと同時に、もう片方の手で肩を掴まれて強い力で突き飛ばされる。 反応しきれずに床に這うように体勢を崩した私に馬乗りになり、彼はクルタの裾をまくった。 「・・・な、何をなさいますかッ?」 さらに白い綿のズボンの上から尻を揉むように撫でられ、ぞっと鳥肌がたつ。 私は伸ばされてくるその手を払いのけると、身をよじって彼の下から逃げ出した。 しかし這うようにして床に落とされたストールを拾ったところで、肩を掴まれて壁に押しつけられる。 サヴィトリ様はそのまま私に覆い被さり、今度はぐっと顔を寄せてきた。 キスをされるのではないかと錯覚するほどの近い距離に、私は眉をひそめて顔をそむける。 「気にいった。お前、俺のものになれ」 「え・・・?」 「ソーマと違って俺はもう子どもが居るし、べつに男妾が居ても文句を言う奴らはいないからな」 驚いている間さえも与えられず、畳み掛けるように重ねられた思わぬ言葉に私はただ絶句した。 抵抗するのも忘れ、唐突過ぎる事態に思考が止まってその場で動けなくなってしまう。 そのとき、ふいに背後から別の声が降ってきた。 「俺のアグニに手を出さないで貰えますか。兄上」 はっと目を見開いて顔をあげ、振り返るとそこには予想したとおりソーマ様が立っておられた。 忌々しそうな視線でこちらを見られて、いまだ私の身体に掛かっていたサヴィトリ様の手を掴んで外す。 それでサヴィトリ様はきまりが悪そうに片眉を上げ、笑いながら自分の顔の前で手を振られた。 「ははっ・・ソーマ、そんなに怒るな。ただの冗談だ」 「冗談?そうとはとても思えませんでしたが・・・・」 ソーマ様は低く怒りのこもった声で吐き捨て、見たこともない冷やかな目をサヴィトリ様に向けておられた。 私の前ではいつも朗らかでいらっしゃるので、こんなに激しくも静かな表情を見たのは初めてだった。 「お前の母上や爺がこいつを男妾と疑いつつも、離れるよう進言しないのが不思議で興味を持ったんだ」 懲りないサヴィトリ様はわざとらしくにやにや笑って、言い訳のような言葉をこぼされたが。 「それは兄上には関係のないことでしょう」 しかし激昂されるよりも凄みのあるソーマ様の視線に、そそくさと執務室から出て行かれることにしたようだ。 そして彼は立ち去り際に私の方を忌々しそうにちらりと見ると、捨て台詞を残された。 「お前も主人のためを思えば、身の程をわきまえて仕えるのを辞めるべきだぞ」 ばたんっと大きな音を立てて閉まったドアを私は床に座り込んだまま、ぼんやりと見つめていた。 |