• 手折られる徒花




     人間は快楽に弱くてあらゆる欲にまみれた短い生涯を送る、卑小な虫けらと変わらない存在の生き物だ。



     悪魔として長い人生を過ごしてきたセバスチャンにとっては、いままで人間相手の恋愛など陳腐なゲームだった。

     魅惑的な甘言で誘って惹きつけて巧みな行為で溺れさせ、心身ともに攻略してしまえばそこで終り。


     そして堕としてしまった後はあっさり捨てるか、または隙をみて契約して魂を喰らうことにしていた。



     恋に溺れた人間の行動パターンは、惚れた相手に異常に執着するものだと決まりきっている。

     予想不可能な新しい刺激を好む性質の悪魔にとっては、そんな相手はつまらない存在だ。


     でも有象無象の価値のない魂でも質はともかく味はそれなりなので、腹が減っていれば食べてやってもいい。




     少なくともアグニに手を出した当初、セバスチャンはそんな風に相手のことを認識していた筈であった。

     しかしアグニはどんなに甘言を囁いても行為を重ねても自分に堕ちず、常に信仰する主のソーマを優先する。


     これはあくまで淫魔なセバスチャンにとって信じられない屈辱であり、初めての経験する敗北感情だった。



     悪魔としてのプライドを人間(ひと)ごときに傷つけられた

     納得できないセバスチャンは、ある晩 気持ちの整理をするためにアグニを自室に呼んだ。





    * * * * * * * *






    「縛らせてくださいませんか?アグニさん」



     部屋に入るなりセバスチャンが微笑んで言ったその台詞に、アグニは絶句して目を見開いた。

     思わず後ずさりさえしたようで、背後のドアに背中があたった鈍い音が遅れて聞こえてくる。



     しかしアグニが逃げ出す前にセバスチャンは腕を伸ばして相手を捕まえ、部屋の中へと誘導してやった。


     睡眠のいらない自分は使うことのほとんど無いベッドに、ぎこちなく笑うアグニを座らせてやる。




    「捕縛術(とりなわじゅつ)をご存知ないのですか?」

    「え?」


     セバスチャンは『絵で覚える捕縄術-手にとるように解かる完成手順-』という本を取り出した。




    「捕縛術(とりなわじゅつ)とは、古来日本から伝わる敵を縄で捕縛するための武術です」


    「はぁ・・日本にはそんな武術があるんですか?」


    「えぇ。日本独自の伝統武術のひとつです」



     インド武術を体得しているアグニは、同じアジアにある国の他の武術にも興味を惹かれたらしい。


     本の最初の方にある初歩的な武術の手引きについて書かれているページを開き、実際に見せてやると良い食いつきだ。




    「武術の体系は4種類に大別されていまして、
     取り押さえた敵を素早く拘束する『早縄』形式や儀式的に用いる『本縄』緊縛によって拷問を加える『拷問縄』。

     そして上記3種類の縄術で緊縛された状態から脱出する『破縄術』です」



     本に載っている様々な緊縛絵図を見せながらの解説に、アグニは熱心にうなずいて図に見いっている。

     その様子に本当に彼は真面目な人間だなと、たくらみを抱えているセバスチャンはほくそ笑んだ。




    「なるほど、素晴らしいです。
     侵入者などを捕縛するときに役に立ちそうな武術ですね」


    「さすがにアグニさんは飲み込みが早い!」


    「いいえ、そんなことは・・」


    「だから執事として主人はもちろんお屋敷を守るために、捕縛術の精度を磨くのは大事です。

     実は日本から取り寄せたこの本で研究し、私は以前までは自信があったのですが今は・・・」



     そこでセバスチャンが言葉を切って表情を曇らせると、アグニは首を傾げて次の言葉を待つように見てくる。

     それで相手が罠に掛かりつつあることを確信した悪魔は、続けて自分のたくらみへ導いていく。


     数ヶ月前にインド帰り逆さ吊り事件絡みで、ランドル卿が屋敷を訪ねてきたときのことを話したのである。


     するとアグニはすぐにはっと目を見開き、捕縛術の鍛錬をしたいとセバスチャンが言い出した訳を察したらしい。



    「・・・貴方があのとき縄を解いて現れたときに私は気がつかされたのですよ。

     書物で得ただけの知識など机上の空論だと!
     そして実践こそが技術向上の近道だと!

     捕縄術を完璧に出来なくて、ファントムハイヴ家の執事たる者と言えるでしょうか!!」


    「セ、セバスチャン殿・・・」


    「だからアグニさん、私に捕縛術鍛錬のために縛らせてくださいませんか!」



     それを証拠にセバスチャンが熱弁しながら肩を強く掴むとアグニは戸惑いを見せたが、逃げようとはしなかった。

     それどころか少しだけ考えるように視線を泳がせた後、自分が役に立てるなら協力すると言い出したのだ。


     だからセバスチャンが長い縄をどこからか取り出して見せても、アグニは全く動揺しなかった。


     捕縛技術の鍛錬のために縛らせてくれと言ったのを、彼は本当にその言葉のまま信じているのだろう。

     その従順で清らかな相手を疑わないアグニの性質に、セバスチャンは思わず声をたてて笑ってしまう。



     縄で緊縛して抵抗を封じつつアグニを辱める、それこそがセバスチャンの本来のたくらみであった。





    「ふふ・・アグニさん。

     では、私に背を向けてベッドの上で両腕を後ろに回して座ってください」


    「はい」



     律儀に返事までして指示されたとおりにアグニはセバスチャンに背を向け、手を後ろに回して腰のあたりで合掌した。


     セバスチャンはその手を撫でてから縄を左右の手首へ交互に掛け、実に手際よく縛り始めた。



     ちなみ以前のように簡単に解けてしまわないよう、今回は念入りに縄には魔力を込めている。


     まず腕を起点に縛った2重にした縄を右上腕に掛け、前に回して胸そして左上腕へ掛けて背中に戻す。

     次に同じ手順で胸の最も厚い部分や胸筋を挟んだりと、何度か胸に縄を回して背中に戻したら一旦縛って固定した。




    「はい、次はベッドの上にうつぶせで寝てください」



     上半身を縛り終えると縄の分布バランスを整えてから、セバスチャンは新しい縄を取り出して短く命じた。


     また言われるままにベッドにうつぶせに寝たアグニは、しかし今度はどこか居心地が悪そうな顔をしている。

     柔らかいマットレスに身体が沈みこみ、どうしても息苦しい不自然な姿勢になってしまうからだろう。


     胸を絞り上げている麻縄は鎖骨の上を横切って背中に回されているので、アグニが肩で息をするたび動いている。




    「アグニさん、どこか苦しいですか?」



     しかしアグニが何も応えないので、セバスチャンは彼の脚全体に縄を巻きつけてしっかりと両脚を纏めていく。

     それから膝を深く折り曲げ、両足首に巻きつく縄を腕を縛っている縄に繋げてやった。


     そうすると少しの余裕はあるものの下半身は太股の辺りから持ち上げられ、脚は完全にくの字に固定された。

     一方で脚に引っ張られて両腕はかなり上に挙がり、その影響で上半身は胸より上が浮いてマットレスにつかなくなる。


     それは縛った姿が身体を反らしたエビのように見えることから、逆海老縛りとも呼ばれる縛り方だった。



     しかしこのままでは呼吸が辛そうなので、せめてうつぶせよりも楽なようベッドに横向きに寝かせてやる。



    「んん、く・・・ッ」


     すると触られるのを拒否するように、アグニは身を揺すってうめき声をあげた。


     苦痛を与える目的ではないのでそんなにきつく縛ってないが、力の加減で辛い想いをさせたかもしれない。

     そう思ってアグニの顔を覗き込んでみると、頬が染まって目元がわずかに潤んでいる。


     その表情がまるで行為のときそのままのように思え、セバスチャンは煽られるものを感じた。



    「はッ・・・」


     ためしにわざと縄をずらして乳首の位置で挟んでやると、アグニは肩を震わせて短く息をのんだ。



     まだ快楽に弱い若者とはいえ縛られてこんなになるなんて、彼はなんて淫らでマゾヒスティックな人間だろう。

     服の上からの刺激なのにその敏感さに、どんな風に辱しめてやろうかと思って楽しみになる。


     そして余った縄をベッドの脚に固定すると、セバスチャンは緊縛したアグニの全身を満足そうに眺めた。




    「さて、これで終わりましたので私は朝食の仕込みをしてきますね」


    「・・え?」


    「私がここへ戻ってくるまでに『破縄術』で縄を解いてください。

     貴方がこの縄を解けるかどうかで、私の捕縛術が上達したか解かりますから」


    「ええ!?」



     まさか縛られたまま放置されると思っていなかったらしい、アグニの心底驚いた声に吹き出しそうになる。



    「あ、あの・・」


    「なんでしょう?」


    「もし、セバスチャン殿が戻ってこられるまでに私が縄抜け出来なかったら?」




     アグニは眉根を寄せたいくらか怯えたような顔で見上げながら、おずおずとした声で問いかけてきた。



     その被虐的な姿と表情にぞくぞくと嗜虐心を煽られ、セバスチャンの口角はひとりでに上がっていく。

     いままでにこれほどまでに嗜虐心をそそる人間(ひと)に出会ったことはない。




    「ふふ・・頑張ってくださいね。アグニさん」



     実際は縄ではなく魔力による呪縛だから、さすがに普通の人間であるアグニに解けるわけがなかった。

     それでも敢えて緊縛したアグニの全身を見下ろしながら、セバスチャンは意地悪なことを言う。


     そしてアグニの不安な気持ちをわざと助長させるように意味ありげな視線を投げ、勿体ぶった仕草で部屋を出ていく。

     薄い唇に浮かんだほの暗い嘲笑が、まったく隙のないほど整ったセバスチャンの顔を鮮やかに彩っていた。






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